1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼした合戦の戦火で焼失しましたが、江戸中期の1804年(文化元年)、中興の僧によって本堂が再建されました。現在の本堂は当時のままで、谷保天満宮と並んで、国立で最も古い建築の一つです。屋根だけは戦後は一部トタン張りで雨漏りを防いでいたそうですが、1981年(昭和56年)になってついに修理され、それまでの茅葺から銅葺きになりました。本尊は釈迦如来が安置されています。
総門の正面に位置する大悲殿観音堂はさらに古く、もとは八代将軍徳川吉宗の享保の改革の一つであった新田開発のときに、郷土の僧・矢澤大拳和尚によって、伊勢原市から上谷保の黄檗宗藤井圓成院に移築されたものです。建立は1718年(享保3年)といわれ、さらに1792年(寛政4年)に、ここ南養寺に移築されました。堂内には、大拳和尚がその師である道傳禅師から贈られたという高さ60センチの木彫りの「十一面千手観音坐像」が安置されています。
ところがこの観音堂は、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)10月まで、赤坂区氷川国民学校の学童疎開や戦災孤児の受け入れ施設に使用され、堂内で煮炊きしたために、壁も天井画も煤で真っ黒になっていました。 そこで、住職とともに心を痛めていた地元の「国立の自然と文化を守る会」のお世話で、マンダラ画家として著名な国立在住の前田常作氏(元武蔵野美術大学学長・1926-2007)が新たな天井画を描くことになりました。 3年の歳月をかけて完成した天井画は、濃紺の深い宇宙の色をベースにした8×8=64枚の色鮮やかなアクリル画。そこには天女や花たちのほかに、東洋の十二支や西洋の十二星座もあり、文化や宗教の枠をも超えた光と平和のメッセージとなっていました。
この観音堂には、ふだんは入ることができません。一般に公開されるのは、唯一、12月31日の大晦日の夜だけ。またこの大晦日には、南養寺ではかがり火がたかれ、境内にある梵鐘で、順番に除夜の鐘をつくことができます。この梵鐘は直径1m、高さ1・5mあり、1725年(安永6年)、谷保の鋳物三家のひとり、下谷保の関忠兵衛によって鋳造されたものです。
【取材・執筆】 田中えり子
【写真】 横坂泰介、くにたち総合ポータルサイト事業協議会
JR南武線の矢川駅を降りて南方向へ。甲州街道を渡ってすぐ左へ折れると、右側に石燈籠が二つ。そこはもう南養寺の駐車場で、そのまままっすぐ進むと総門があります。