谷保天満宮でクラシックカーのお祭り?
この意外な組み合わせには、100年以上もさかのぼる物語がありました。「偶然」という言葉では表しきれないほどの人と人のつながり「ご縁」がありました。
車好きはもちろん、とりたてて車好きでなくても、見ているだけでロマンチックな気分にひたれるクラシックカーたち。国立には年に一度、100台を超えるクラシックカーが一堂に会するイベントがあるのです。
ちょっと長くなりますが、まずは旧車祭開催にいたるまでのストーリーから。
谷保天満宮といえば、言わずと知れた学業の神様。創始903年、菅原道真公の三男道武公が、現在の府中市日新町あたりに父・道真公の木像を祀る廟を建立したことを起源とします。1181年11月3日遷座、現在の地に移転したといいます。 代々津戸姓を名乗り、現在の津戸最宮司が64代目という関東最古、亀戸、湯島とともに「関東三大天神」と並び称される由緒ある天神さまです。 多くの国立市民にとっては、初詣をはじめ節目節目に参拝しては学業成就、家内安全などを祈願し、あるいは節分や梅花観賞などに訪れるおなじみの天神さまでもあります。地域や人々の心をまとめる「求心力」を持ち合わせているようにも感じます。 そんな谷保天満宮のもうひとつの顔が「全国で初めて交通安全祈願をした神社」でした。このもうひとつの顔を持つにいたった経緯は、梅林にある石碑の意味するところを知ることから始まります。
みなさんは、梅林に「有栖川宮威仁親王殿下台臨記念」と刻まれた石碑があるのをご存知でしょうか。裏には「明治41年8月1日」と日付が刻まれています。 2002年の夏のある日、資料を携えた自動車ジャーナリストが、 「この石碑の意味をご存知ですか」 と天満宮を訪ねてきました。 その資料とは、明治41年8月2日付時事新報と梅林で行われた昼食会の写真のコピー。宮様や軍人、政財界の要人が写っています。
それは明治41年8月1日、有栖川宮親王殿下の先導により、東京・日比谷公園から谷保天満宮を目的地として開催されたわが国初の「自動車遠乗り会(とおのりかい)」を報じる記事と、昼食会の様子を写したものでした。 その石碑について津戸宮司は先代から、 「宮様が陸軍の演習のときに指揮をとられ、ここに立ち寄ったことを記念して建立されたと伝えられている」 と聞いていたそうですが、かの自動車ジャーナリストによれば、 「この碑は、日本における車の歴史にとって、とても重要なもの」 なのだとのことでした。
「市内にある都立第五商業高校の先生が、昔外国人と結婚したある日本女性のことを本にまとめるにあたって調べているときに、この資料を見つけ、かのジャーナリストのところに持ち込んだらしいのですよ」(谷保天満宮権禰宜・菊地 茂さん) 多少の興味は抱いたものの忙しさにかまけて眠らせていた菊地さんですが、お子さんと出かけた江戸東京博物館で思い出し、また、府中市の図書館で朝日新聞の縮刷版の中にこのときの記事を見つけたところから、俄然興味がふくらみます。愛知県のトヨタ博物館の資料室にあたったり、図書館通いをしたり、調べが進むにつれどんどんその虜になり、その間、さまざまな資料との、また人との出会いを経て、石碑はこの遠乗り会を記念して建てられたに違いないと、ジャーナリストのことばが裏付けられたことに確信を抱くにいたります。 その前年明治40年9月、国産初のガソリン自動車「吉田式自動車 東京自動車製作所第1号」(愛称:タクリー号)が完成、「自動車の宮様」と呼ばれたほど自動車好きの有栖川宮威仁親王殿下がそのオーナーとなりました。 当時の国内自動車保有数は、明治40年には16台、明治41年には30台だったと言いますから、それはそれは珍しいものでした。タクリーの愛称は「ガタクリガタクリ」音をたてながら走ることからつけられたそうです。なんともほほえましい命名ですね。
その遠乗り会とは、宮様先導のもと、当時の陸軍、政財界の重鎮、また新聞5社の記者も同行させ、11台に分乗して日比谷公園を9時に出発。「新宿からは樹木が鬱蒼として涼しい木陰を作る甲州街道を颯爽と駆け抜けた」と当時の新聞記事にはあります。11台もの車、宮様のお通りとあらば、沿道の人々の驚きはいかばかりだったでしょう。 11時立川到着。休憩後、谷保天満宮まで戻っての昼食会。 食後、長岡外史陸軍少将が「軍隊にも将来は砲車、輸送車として車を導入したい」旨の演説を行います。まだ自動車メーカーもないころ、財界、産業界からも要となる人々が同行しているのですから、「陸軍の走行テストもかねていたのかもしれないし、自動車産業を興したいという意欲のあらわれだったのかもしれませんね」(菊地さん) 沿道の交通規制や警備にも陸軍がかかわったであろうことは想像に難くないですから、先代宮司の「陸軍演習の折に・・・」のくだりも、あながちハズレではないのかもしれないと、菊地さんは推測します。 また同じこの席で矢野恒太氏(医師、第一生命保険相互会社創業者)の提案によりわが国初の自動車クラブ「オートモービル・クラブ・ジャパン」を立ち上げます。 食事会の途中、雷がきそうになりました。ガタクリガタクリ走る車でやっとの思いで来たのですから、また無事に帰れるように、皆がそれこそ真剣に拝んだに違いありません。 かくして谷保天満宮は、日本で初めて交通安全祈願をした神社となりました。
お仕事の合間にこれだけのことを調べ上げた菊地さん。これは市内の方々にも伝えなくてはと、「くにたち自然と文化を守る会」会報にこの経緯を執筆・発表します。 商工会の方々、自動車が大好きでのちに旧車祭世話人会代表になる是枝正美さんなどが、深く興味を持ち、これを街おこしに使えるのではないかと動き始めます。 折しもこの遠乗り会から100周年を迎えようとしていました。 そこで、まずは国立市観光まちづくり協会の肝いりで「自動車実用化への貴重な先駆 わが国初の自動車『遠乗り会』100周年」のリーフレットが作成されます。 また東京都がオリンピック誘致活動を展開しているさなかでもあったので、キャンペーンイベントとして「遠乗り会、昼食会を再現させよう」と、菊地さんの努力の成果が形になっていきます。 2008年8月1日。梅林での昼食会を再現。そして、トヨタ博物館の西川稔さんによる講演も行われました。タクリー号の模型も展示されて、国立の、そして谷保天満宮の知られざる歴史が鮮やかによみがえります。 そのとき、ベニヤで作ったタクリー号は今でも参道に置かれており、子どもを乗せて記念撮影をしている光景によく出会います。 「色が褪せないように時々塗装しに行ってます」(是枝さん) その年の12月7日には、是枝さんの呼びかけで集まったクラシックカーが日比谷公園から谷保天満宮までの遠乗り会再現ドライブを敢行。その後、谷保第三公園に集結して、人文字ならぬ車文字を描いて、オリンピック誘致を願いました。 残念ながらオリンピック誘致は叶いませんでしたが、旧車祭はその後も続き、あのとき梅林で結成された「オートモービル・クラブ・ジャパン」も2011年7月31日の「リスタートパーティ」で再結成の運びとなりました。 「宮様の遠乗り会は、車好きにはたまらない話だった。国立を、訪れて楽しい街にしたいと思っている。旧車祭も1回で終わってしまうのはいやだったし、タクリー号で街をアピールする方法はまだまだいっぱいあると思うんだ」(同) 瞳を輝かせて語る是枝さんの口からは、次から次へと構想が飛び出します。 「国立のタクシーは”タクリー”と呼ぶとかさ、だじゃれみたいだけど、そうやってみんなの心に残っていくのもいいでしょ。タクリー号の1/6スケールの”子ども神輿”も作った。車の形した神輿なんてここだけでしょ。旧車祭の記録映像試写会もやっているし、立川のスマイルtaxi(三輪自転車)のような観光要素のある乗りものもタクリー号として作れないかなと計画中」(同) その資金については「タクリー号基金」としてカンパをお願いしたり、正月の三が日には宮司さんの許可をいただいて、梅林で「プラムガーデンカフェ」をオープンしたり。その行動力は、 「語るだけでなく確実に実践していくところが是枝さんのすごいところ」(菊地さん) と、太鼓判。 ひとりの自動車ジャーナリストがもたらした新聞と写真のコピーから、石碑の謎を解き明かしていく菊地さんのお話は、さながら推理劇のようでした。もたらされたさまざまな資料、情報、人とのつながり。そのどれひとつを欠いても、誰ひとりが欠けても、毎年行われる旧車祭にはならなかったことでしょう。天神さまのお導きとしか言いようのない目に見えないご縁の糸があったように感じます。 故高松宮妃喜久子さまが有栖川宮の孫にあたり有栖川宮家断絶後の祭祀を継承したこと、高松宮妃薨去(こうきょ)の後、同家も断絶、と宮家にも大きな変化がおとずれます。そんな中、とりわけ有栖川宮親王殿下のなされたことにご関心をお持ちになり、その足跡を訪ねていらっしゃるのが三笠宮さま。その三笠宮家に出入りしている方が国立に在住されていることから、遠乗り会に関する資料をお届けしたことにより、2008年には三笠宮ご夫妻が天満宮にお参りにみえました。くだんの石碑もご覧になりました。ここで遠乗り会の史実に改めてお墨付きが得られたようです。 長い歴史をもつ谷保天満宮には、調べてみたい謎がまだいくつもあると、菊地さんは言います。次の謎解きの折には、ぜひとも探偵助手としてお供させてくださいませと、心の中でつぶやきました。
【取材執筆】小山信子 【取材協力】菊地 茂さん(谷保天満宮 権禰宜)、是枝正美さん(谷保天満宮旧車祭世話人会) 【写真協力】村井達哉さん(モノクロ写真)、谷保天満宮、くにたち一芸塾写真クラブ